アジア諸国で唯一、大国アメリカに匹敵したと言われている「日本軍」
最終的に敗戦を余儀なくされたが、その勇猛果敢な姿は今なお世界で称えられている。
そんな日本軍の中で、特にアメリカから恐れられていた1人の軍人をご存知だろうか?
その軍人の名は「舩坂弘」という。
「アンガウルの戦い」と呼ばれる、第二次世界大戦における「パラオーマリアナ戦役最後の戦い」で、船坂は多大な戦果を上げたと言われている。
延べ200人を超える米兵を倒したと言われており、その功績は現在でも語り継がれているという。
しかし、船坂の凄いところは「残した功績」でもなければ「討ち取った数」でもない。
その異常なほどの「生命力」である。
戦いの最中、船坂は大腿部に裂傷を負い、命からがら基地に戻った。
その傷口を見るや、軍医は自決用の手榴弾を手渡し、その場を去ったという。
これが意味していることは、戦うことはおろか、生き抜くことさえ不可能だということ。
しかし船坂は、日章旗で血止めをし、自分の持ち場である洞窟へ、ほふく前進で帰還したのだ。
それどころか、翌日には歩けるまでに回復し、戦闘に復帰したという。
その後も、何度となく瀕死の重傷を負うも、翌日には回復しているから驚きである。
これが船坂が「不死身」と呼ばれる所以だ。
船坂自身「傷が治りやすい体質」と語っていたというが、それにしてもあり得ないほどの生命力である。
しかし、そんな船坂も連日の激しい戦闘によって、ついには歩けなくなってしまう。
傷口からは蛆虫が湧き、もはやどうすることもできない状況に追い込まれていったのだ。
「蛆虫に食われて死ぬぐらいなら」と、手榴弾で自決を試みるも不発に終わった。
船坂は暫く呆然として、なぜ死なせてもらえないのかを考え絶望したという。
周りの仲間はどんどん亡くなっていき、もはやこれまでと覚悟した船坂は、あろうことか単身敵地に乗り込み「肉弾自爆」を決行することに。
手榴弾6発を体に括りつけ、4日かけてほふく前進で敵陣地まで行ったという。
肘や足はボロボロに擦り剥け、連日の戦いの傷も体の至るところにあった。
その姿はさながら「亡霊」のようであったと言われている。
敵陣地には総勢1万人が駐屯していたが、船坂の狙いは指揮官連中であった。
それまで近くの茂みに姿を隠し、指揮官が集まる瞬間をひたすらに待ち続けた。
そして、ジープが続々と集まるのを確認すると、ここぞとばかりに気力を振り絞り、特攻したのである。
いきなり姿を現した日本兵の姿に、一瞬驚いた様子を見せた米兵であったが、すぐさま銃を構えて、船坂の頸部を打ち抜いた。
この時点で、米兵は戦死したと判断したが、念の為に野戦病院に運んだ。
この時アメリカの軍医は「これが日本の”ハラキリ”だ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と賞賛したと言われている。
しかしその3日後、こともあろうか船坂は蘇生したのである。
敵に情を与えられたと勘違いした船坂は、近くにいた米兵の銃を自分に突きつけ「早く撃て!」と暴れまわった。
この出来事は、瞬く間に米兵の間で話題となり、伝説として語られるようになったという。
その後、驚異的な回復を見せた船坂は、当時の平均寿命を大きく上回る「85歳」でこの世を去った。
生前は共に戦った仲間の「慰霊碑」を作ることに奔走していたと言われており、財産のほとんどを寄付したという。
現在の義務教育では教えてもらえないが、我々の祖先は本当に凄かったのだ。
我が国日本には、埋もれていった偉人が数多く存在する。
例えば「工藤俊作」もその1人だろう。
自らの危険を顧みず、イギリス兵(敵兵)400人以上を救ったとして、イギリスでは最も有名な日本人である。
彼もまた、日本が誇るべき人物の1人だと私は思う。
我々には祖先が残した功績を知るという義務がある。
あなたにもぜひ工藤俊作という男を知っておいてもらいたい。
コメント
見たら電車の中で泣いてしまいました。号泣ではないですがw